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『福祉ゼロ社会』を目指すべし

極めて刺激的なタイトルです。
注目されたいという下心で作ったタイトルなのは疑いようがない事実ですが、まぁ、読んでやってください。




誤解を招いては困りますので、弁解しておきますが、今の社会保障・社会保険システムや福祉政策を放棄しろというのではありません。

福祉の充実と保険の適用は、不幸な状況である

これを認識すべきだということなのです。

交通事故や疾病がなく、健康で生活を営める状態であれば、保険は使いません。つまり、保険を使う状況というのは、不幸になったとき、ということです。従って、保険支出がゼロになるというのは、人々が幸せに暮らせている状態なのですから、「保険を使わずに済んだね」というのが、国民自身にとって最も好ましい、ということになります。

高齢者や身障者への福祉も、高齢者がお元気で、身障者も健常者に近い状態にまで治療ができるのであれば、そもそも「充実しなくても、問題はない」わけです。生活保護に至っては、生活の糧が安定して十分に入るのであれば、「いらない」のですから、生活保護が使われなくなるのは、国民にとって好ましいということになります。

だからといって予算を削れというのではありません。
社会保障予算が充実していれば、それだけ「早く、確実に、十分に、不幸を最小限に食い止めることができる」のですから、これを充実するのが国の責務であることは言うまでもありません。
ただ、『転ばぬ先の杖』という諺もあるように、「予防」の概念も必要です。「予防」とは「不幸な状態にならないようにする」ことですから、これにもまた、力を十分尽くすべきです。
また、予防や社会保障の充実は、安心感を与え、精神的余裕をもたらすツールにもなりますから、その意味でも予算措置は十分にするべきでしょう。

決算において「事故も疾病も少なかった。だから、今年は支出が少なかった。」というのは、国民にとって歓迎すべきことなのであって、それゆえに『福祉ゼロ社会』というのは、喜ぶべきものだと私は考えます。






もうひとつの意味としては

『弱者救済』から『仲間を増やす』

という概念にして欲しいということです。

高齢者や身障者は「身体機能のハンデがある」だけであって、人格そのものにハンデがあるわけではありません。高齢者は、それまで社会を支えてきた誇りがありますし、身障者もひとりの人間としてのプライドがあります。生活保護に至っては、それこそプライドを傷つけられるいわれ自体がない。

『弱者救済』というのは、一見、慈愛に満ちた優しさがありますが、施す側が「上から目線」だと感じます。ボランティアも含めて、「実は、自分たちが社会的弱者を最もバカにしている」ということに気づいていないのです。

『身体機能のハンデが不幸にしてある。でも、そのハンデさえ克服できれば、健常者と同じじゃないか。それだけの話だ。』という考えに転換することこそ、身障者や高齢者が最も喜ぶ待遇ではなかろうか、ということです。言葉づかいが悪いですが、「たかが目が見えないだけじゃないか、あとは俺たちと一緒だよ。そこだけカバーできれば、彼は弱者じゃない、仲間であり、先生だよ。」というマインドでの福祉政策が、盲目の方々に最も喜ばれる受け入れ方じゃないかなと思っているのです。
高齢者に至っては、それこそ戦後間もない貧しい時代から高度成長の原動力となった、バイタリティあふれる方々です。若い世代に対しては大いに学ぶところこそあれ、「お助けする」なんて失礼千万ですよ。「弱者に対する施し」ではなく「偉大な先生に対するささやかなお礼」という気持ちでやるべきなのです。
母子家庭は社会的ケアが充実すれば、ハンデなんてほとんど皆無なのであって、(あえて言いますが)この程度のことなんて、国にやる気さえあれば、予算措置も法律もほとんどいじらなくてもいい。できない方が不思議です。




日本の「福祉」の最大の欠点は、制度や予算ではなく、「コンセプト」にあります。
弱者にしなくても済む人、ちょっとしたケアで弱者ではなくなる人、これらをみんな弱者としてしまって、健常者があ~だこ~だ言っているにすぎないのです。自公も野党も、経営者も市民運動も、労働者もボランティアも、ほとんどの人たちが、私に言わせれば「お前ら、馬鹿にしてんのか?なに見下した話してんだよ?!」ということですね。

高齢者・身障者対策の基本は、私は、「福祉」ではなく「経済政策」「社会政策」「教育政策」に類すべきものであり、「高齢者や身障者へのケアは、日本国民全員の利益である」という考えの下、「不幸にして事故・疾病のときに、はじめて福祉の出番となる」概念にする。
『福祉ゼロ社会』とは、『みんなが誇りが持ちながら幸せに暮らせる。だから「必要ない」。』という意味での、前向きな社会にしていこう、という考え方なのです。
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別にいいじゃん・・・
アナーキスト的にいえば、

国民は
「国家に保障されて生きているから、国家に依存するという」人間の堕落を現代にも該当させることができるのである。
冥王星の持論は、「国家に飼いならされた犬」=「国民」である。


冷静に考えれば、「保険」のオリジンも本質も「ギャンブル」であって、

「国家は永遠のもの」と信仰してる方が非現実的。
依存したいのは分かるが、それを強制される覚えはない。

保障・保険システムの義務化は、”国家による人民搾取である”という認知は些かも全否定できようもないだろう。

アナーキストとして冥王星は、あっさり国家という行政単位を否定できるし、
あくまでも国家ではなく、「郷土」・「家族」というコミュニティ単位こそが、自分の本源である(コミュニタリアン)から、特段驚くほどもでもない。

 「福祉」という言葉のオリジンは中国なのだが、
福祉概念が導入されたのは、日本国憲法下と考えれば英語の「Welfare」を考えるのが妥当っぽ。

Welfareを日本語訳にすると、「幸福, 繁栄, 福利」

「Social Welfare」で社会福祉という言葉になるが、Welfareの意味からして、政治的に深いのであって、福祉とは政治そのものと言える。

生活保護は「social security」である。

整理すると、現代社会では
social securityとSocial Welfareの区別が明確ではないから混濁されているだけということになる。

どちらも政治的だが、「security」は安全性という差し迫った言葉であって
Welfareは緊急性などはない言葉ということで区分けできよう。(その区分は難しいが)

根本的には、サービスを受ける立場によってsocial securityにもSocial Welfareにもなりえるものであることは、必然であって留意することもでない。

そもそも、社会保障制度の隆盛はビスマルクの「アメ・ムチ政策」の背景が過激化したものである。
いつまでも国家という存在に対して、忠誠を誓って自ら束縛されるような活動していれば、国家によって人類は滅ぼされるだろう。
(歴史家としてそういう国家認識は特段不可思議でもない。近代社会において国家が巨大化するにつれ、国家依存者が堕落している。)
逆に堕落した人間が弱者として自己責任も負わない社会は病んでいる。
自然淘汰・性淘汰の原則から人類だけ逃れていることに、合理性があるとは思えない。

バカはバカの器で収まればいい。言葉を知らない奴は、言葉の知らない奴と語ればいい。
弱者を救済するのは、強者の気まぐれであって、弱者を救うのが政治目的ではない。

弱い奴ほど、吠えるものであるが、それは冥王星にも該当するので、大きなことは言えない。

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地球温暖化の流れに逆行して、財布の中身は常に氷河期到来している、「生活は庶民以下でも、志は貴族」(←鈴木邦男氏・談)と、言える日は来ないだろうなぁ・・・。

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