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沖縄・・・執念のサミット開催

これは、あくまでもフィクションです。





2007年。アメリカで行われた「2+2」会談。
沖縄の米軍基地をグアムに移転することについて、ここで話し合いが行われた。

「もし、あの方が総理として生きておわせば・・・。」




1998年7月30日。この物語の主役となる一人の男が、内閣総理大臣に就任した。

小渕恵三。

「平成のおじさん」として官房長官時代に「平成」と書かれた額を持って記者会見に臨んだ自民党竹下派七奉行のひとりである。

小沢一郎、橋本龍太郎、菅直人、野中広務、鳩山由紀夫、河野洋平、宮沢喜一・・・。誰がどう見ても、彼らには人気、実力、知名度・・・どれも、はしごをかけたって届かない、おそらく届くことなどありえない、まさに「凡人」という称号にふさわしい政治家である。

選挙は常に楽なものではなかった。

同じ群馬には、福田赳夫、中曽根康弘といった、それこそ「歴史に残る超大物」に挟まれた、地味で「月見草」と呼ばれた選挙だらけであった。

党内でも磐石とは言いがたい状況であった。

橋本後継の総裁選、同じ派閥の有力議員が離脱して出馬。三つ巴の戦いを制したものの、最大派閥の領袖であるにも関わらず、知名度も乏しく、権力も奪われた、「人柄の良さ」だけで御輿に乗せられただけの総理には、期待するほどのものはない。総裁の座も総理の椅子も、最大派閥の実力者による「御輿」でしかなかった。

国会でも苦戦は続く。

進歩的文化人と呼ばれる人たちからの、「天下の奇観」、「あんな顔を毎日見なければならないかと思うとウンザリする」とまで言われる、この始末。就任早々から「一刻も早く退陣を」などと書きたてた新聞すらあった。
誰もが歓迎しない総理大臣に追い討ちをかけるように、参議院で与野党が逆転している「ねじれ」が発生。このため、金融再生法は、世論を背景に評価された民主党案を丸呑みせざるを得なかった。
政権安定のためには、幹事長をして「悪魔と手を握る」と自由党と連立を結んだ。後に自らの寿命を縮める「裏切り」があることを、当時、予測していたのかどうか・・・そんなことは、今でも定かではない。




話は、総理になるさらに40年前の、早稲田の学生時代。
当時から観光の名所として人気があった沖縄へ、彼もまた、旅行した。きっと、沖縄で常夏の海でも満喫しようとしていたに違いない。

あの悲惨な3年8ヶ月の戦争は、この『沖縄』だけは、今もなお続いていた。
高等弁務官の絶大な権力を背景にした、米軍の勝手気ままな土地収用や殺人演習に、沖縄の住民は苦しんだ。治外法権に置かれた米軍人の犯罪を、琉球政府が取り締まることなど絶対にできない。
ひとりの青年の目の前にある、「青い海、白い砂浜」の「沖縄」は、「檻のない監獄」のような「OKINAWA」であった。現実を突きつけられたひとりの青年の心に刻まれた、小さくて、でもとても大きな執念・・・。

『ここにアイツを呼んでやる。何がなんでも見てもらう。アイツを絶対、ここに呼ぶんだ・・・。』




1998年7月30日。齢60を直前にして指名された「内閣総理大臣」。
運命は彼に「サミット」を託した。

念願を実現する「壁」は、まさに「難攻不落」の鉄壁である。
この「壁」を崩すのは生易しいことではない。だから、なんでもやった。どんなに陰口を叩かれようと、どんなに見下されようと、どんなに惨めな姿を晒しても、そして、どんなにプライドが傷つく酷評が残ろうとも、できることは全部やった。
「二千円札」「地域振興券」「アホーマンス」「冷めたピザ」「ゼロ金利」、極めつけは「日本一の借金王」と自嘲した無駄な公共事業と国債の乱発。衆議院議員選挙における比例代表議席数も、自由党案を丸呑みした。アメリカからの要求だって、民主党の法案だって丸呑みだ。総工費700億という新首相官邸も建設開始。政官業の癒着が何だ、いくらだってやってやるよ。

後ろ指など何度差されたかわからない。いや、「後ろ指」どころか「権力とカネの亡者」そのものとしか、国民の目には映らない。それでも、やれることは全部やった。すべては2年後、あの『沖縄』の姿を世界の60億人の眼に焼き付ける、ただそのために。




1999年4月29日、沖縄でサミット開催することが決定された。
新聞は「久々に政治をみた」と評した。あとは、来年の7月、ホスト国の議長として、自分自身があの大統領に、膨大な土地を占有された米軍基地を持つこの「沖縄」に、この手で呼ぶ。ようやくここまでやってきた。

それから1年。相変わらず政権は不安定であった。
自民党総裁選、無投票当選にこだわる小渕の前に、2人の派閥の領袖が反旗を翻す。「ブッチフォン」で「ズームイン朝」や「サンデー・プロジェクト」の電撃電話生出演をし、相変わらず「アホーマンス」は続く。サミットは「無駄な公共事業をしているだけ」というマスコミ批判も散見する。公明党との連立政権を余儀なくされた。これが今日まで8年もの歳月にわたる「自公連立政権」のスタートでもあった。まさに、「がけっぷち」総理にふさわしい、威厳のない姿を見せ続けていた。




2000年4月2日。
自由党が政権からの離脱が決定的となった。さらに困難な政権運営を余儀なくされることになる。事態打開の策を講じるために、これから官邸を出なければならない。

記者に囲まれて首相官邸を出るひとりの男。いつもとは何かが違う。

「冷めたピザ」と揶揄され、「凡人」と言われた『ただの男』の眼ではない。
「株あがれ!」「日本一の借金王」と蔑まれる『無能な政治家』の背中でもない。


記者に囲まれたひとりの男の名は


『日本国第84代内閣総理大臣 小渕恵三』


「あの日から40年。いろんなことがあった。とても見苦しかった。世間から嘲り笑われた。とても自慢できる人生なんかじゃない。だから何だというのだ。あと少しで、あの「沖縄」に世界最高の権力者を呼ぶんだ。世界の警察官に、あの青い目であの苦しさと悔しさをじっくり味わってもらうんだ。こんなつまらん政局ごときに、言葉なんてあるものか。さぁ、記者諸君、そこをどきたまえ。」


決意を秘めた背中とはうらはらに、身体はもう、限界を超えていた。

2000年5月14日16時7分。


『君は、早稲田大学雄弁会に属していたが、決して多弁ではなかった。でも、朴訥な語りは、人々の心にしみ込む独特な説得力があった。もしも君が沖縄サミットを主催していたら、ホスト国の首相にもかかわらず、かなり控え目に沖縄を語ったことでありましょう。だが、君ならそれで十分だった。君の含羞を帯びた語りは、何物にも増して説得力を持ち、君は存在そのものが雄弁だった。そんな君の姿を見ながら、多くの国民は沖縄の痛みを改めて自分の痛みと感じたに違いない。』(村山富市)




2007年、いわゆる「2+2」会談で沖縄の米軍基地をグアムに移転するロードマップについて話し合われた。そこで浮かびだした日本側の多大な負担。しかし、まだ「解決」したわけではない。

小渕恵三、あなたがもし、内閣総理大臣として生きておわせば・・・。


(文章中:敬称略)
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地球温暖化の流れに逆行して、財布の中身は常に氷河期到来している、「生活は庶民以下でも、志は貴族」(←鈴木邦男氏・談)と、言える日は来ないだろうなぁ・・・。

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