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沖縄の米兵事件で安保破棄を迫る人たち

沖縄での米兵の少女暴行事件は、1995年の事件を再び思い起こした。また、私自身、こうした米兵の事件については、憤りを感じ、そして、日米地位協定の改善等を図っていかなければならないと考える。

しかし、この事件をきっかけにして、感情論として「日米安保廃棄」を唱えるのは同意できても、魂のステージが低い私は、理性的には同意できない。
なぜなら、日米安保条約や日米地位協定が引き起こした事件ではないからである。

確かに米軍基地がなければ、米兵によるこうした犯罪は「ない」。当たり前である、そもそも「米兵」が「いない」のだから。
しかし、これを言ってしまえば、「1人2人の外国人が犯罪を犯したら、その外国人を全員日本から追い出せ」となってしまうし、「○○県民の1人が犯罪を犯せば、○○県民全員を日本から追い出せ」となってしまう。
魂のステージが高いお方たちにとっては、同じロジックが成立しても、米軍と他の外国人は区別しなければならないそうである。なぜなら、魂のステージが高ければ、ロジック以上の理由を認識することができるから、だそうである。


さて、日米安保だが、これは単に日本の安全保障のための条約に過ぎないと思ったら大間違いである。この程度の認識で十分だと考えるほど、私は魂のステージは高くないので、もっと掘り下げて語ることにする。

当初、日米安保条約は、まさに「憲法により軍事力を放棄した日本は、独自で国家主権を防衛する手段を持たない」ということで締結された条約である。
しかし、そこで終わってしまうことに魂のステージの高さが垣間見られている人が実に多い。
安保条約がなぜ東南アジアやオセアニアといった諸国に歓迎されたかといえば、「日本への武力攻撃の可能性は否定できない」「しかし、日本が独自に防衛手段を持てば、再び侵略の脅威となる」という2つの矛盾が発生しているという、正しい認識があったがゆえである。これを『ビンのふた』と称する人もいるが、これを東南アジアもオセアニアも歓迎したのである。

こういえば、魂のステージが高い方たちは、「単独講和だったのがいけない。共産圏や中国本土を含めた講和条約であれば、必要なかった。」と私を説教するだろう。しかし、サンフランシスコ会議において、ソビエトは「修正案」を出している。




八,第八章に,次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本国は,武力をもつて対日戦争に参加したいかなる国を対象とする連合または軍事同盟にも加入しない義務を負う。」


ソビエトは、旧共産圏を巻き込んで「ワルシャワ条約機構」という安全保障の軍事同盟を締結している。日本だけが加入できないというのは、「攻撃されたくなかったら、俺の言うことを聞けよ」と言っているだけである。




九,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本の陸,海,空軍の軍備は自己防衛の任務にのみ供されるように厳格に制限されるべきである。従つて,日本国は,国境警備隊及び憲兵を含めて次にのべる範囲内の軍備を有することが認められる。


 (1) 対空砲兵を含め,総数一五万人の兵力を有する陸軍
 (2) 総数二万五千人の兵力,総トン数七万五千トンの海軍
 (3) 海軍航空部隊を含めて戦闘機及び偵察機二〇〇機,予備機を含めて,輸送機,海空遭難救助機,練習用及び連絡用飛行機一五〇機を有し,総数二万人の兵力を有する空軍。日本国は,機体内部に爆弾積載装置をもつ爆撃機たることを本来の目的として設計されたいかなる航空機をも所有し,または獲得してはならない。
 (4) 日本軍隊の有する中型及び大型戦車の総数は,二〇〇台を越えてはならない。
 (5) 軍隊の兵力は,それぞれの場合に戦闘員,補給整備員及び事務要員を含むものとする。」

修正案を出したソビエトは、いったい、どれだけの兵力を持っていたというのであろうか。
膨大な戦力を有するソビエトに対して、それに対抗できないようにする、というのだけでも、もはや「俺の子分になれ」と言っているに等しいのである




一一,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本は,次の諸武器を所有し,製造しまたは実験してはならない。


 (I) すべての原子力兵器,ならびに,細菌兵器,化学兵器を含む他のすべての大量殺傷のための手段
 (II) 一切の自動発進式若しくは誘導式の投射物,あるいはこれらの発射に関連する装置(ただし,本条約によつて保有を許される海軍艦艇の魚雷,同発射管で通常の海軍装備と認められるもの以外のもの)
 (III) 射程三〇キロメートルを超える一切の大砲
 (IV) 接触によらず自動感応装置によつて爆発する機雷または魚雷
 (V) 一切の人間操縦魚雷」

原爆を開発し、長距離ミサイルを開発しておきながら、なんという自分勝手な要求であろうか。要するに「ソビエトに逆らう力を持つなよ」と言っているだけである。こんなものを飲んでまで講和を結ぶとなれば、もはや「奴隷の平和」にしかならない。




十三,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「(1) 宗谷海峡,根室海峡の日本側全沿岸及び津軽海峡及び対馬海峡を非武装化する。右の諸海峡は,常にあらゆる国の商船に対して開放されるものとする。
  (2) 本条一項に挙げた諸海峡は,日本海に隣接する諸国に属する軍艦に対してのみ開放されるものとする。」


要するに、宗谷海峡、根室海峡、津軽海峡、対馬海峡は、ソビエトの軍艦は自由に通行できるが、欧米の軍艦は通れないということ、そして「非武装化」されながら「軍艦に対して開放」ということなので「ソビエトが日本を攻撃できるようにしておけ」と言っているだけである。




こんな修正案を飲まなければ講和を結ばないといっている相手とは、魂のステージが低い私なんぞは講和を結びたくないものである。


話がズレてしまったが、日米安保体制とは、単に日本とアメリカとの間の安全保障ではない安保条約破棄というのは、東アジア全体の安全保障の枠組みを激変させることになる重大事である。考慮せねばならないのは、日本だけではない。東南アジアの安全保障の枠組みや朝鮮半島、台湾海峡といった、「日本以外の国々の安全保障」も同時に考えた上でのものでなければ、日本は武力攻撃を受ける危険性がなくても、東アジア全体が不安定になる可能性が出てくるのである。朝鮮半島は、南北の38度線を隔てた軍事緊張と駆け引きがまだ継続中である。
台湾海峡は、中国が「反国家分裂法」という挑発的な法律を作ってしまった。
東南アジアは、中国の軍事的脅威を帯びている。
インドとパキスタンもカシミール問題や核で対立したままであり、インドは中国とも軍事的な駆け引きが続いている。

これらに対する楔として、日米安保体制が機能しているのが現在の国際情勢でもある。ちなみに、米軍は西太平洋においては、防衛・防御という点においては、日本の自衛隊がなくては機能しない。攻撃だけならば、「基地を自由に使わせてもらう」で十分であるが、防御・防衛という面では、基地よりも、「自衛隊の装備や戦力」が「アメリカの頼み」である。とても驚きだが、日本に導入されているイージスシステムがアメリカでも最新式のものであったり、SM-3の新型が日米共同開発(しかも、主力にしようとアメリカが企画している)ということと、上記の国際情勢をみれば、日米安保体制が機能しなければどれだけ怖ろしいことになるのかは、一目瞭然である。

それを全面的に否定し、「非人間的」とまで非難しておいて、この東アジア全体の安全保障を、武力なしで構築するだけの実効性のある具体的かつ詳細な考えがあるのだろうか、私はぜひとも魂のステージが高い方に伺いたい。


日米地位協定に関しての非難も、私は批判する。
日米地位協定第17条第5項のCには「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行うものとする。」とあり、法的には身柄引き渡しは起訴後というのである。この条文が改定されたわけではないことについては、異論の余地はない。
ところが、1995年10月、沖縄の米兵による暴行事件によって、日米合同委員会において、「合衆国は、殺人又は強姦という凶悪な犯罪の特定の場合に日本国が行うことがある被疑者の起訴前の拘禁の移転についてのいかなる要請に対しても好意的な考慮を払う。合衆国は、日本国が考慮されるべきと信ずるその他の特定の場合について同国が合同委員会において提示することがある特別の見解を十分に考慮する。」として『運用上の改善』がなされている。

これがなぜ、「協定の改定」ではなく、このような「運用上の改善」「好意的考慮」となるのか、といえば、第26条第1項において、「この協定は、日本国及び合衆国によりそれぞれの国内法上の手続に従つて承認されなければならず、その承認を通知する公文が交換されるものとする。」という規定があるためである。説明すれば、「条文そのものを改定するとき」は、日米両国において、議会の承認を得ることが必要となり、時間がかかることもさることながら、反対意見が噴出し、日米双方にとって利害が対立した場合の懸念が生じるためである。
このため、「条文の改定」ではなく「運用の改善」あるいは「『好意的配慮』という名の例外を設定する」という形式をとったに過ぎない。この形であれば、委員会の合意や交換公文、すなわち、極端に言えば、行政権のレベルで事実上の改定ができるのである。もちろん、協定の正式な改定ではない以上、「法的義務」を負うことについては、脆弱性がある。しかしながら、この「合意」は、「公表されている」ものである以上、実際には法的拘束力がある程度発生することも否定しえない。
「法的なもの」と「政治的なもの」、「道義的なもの」の区別は、現実政治にはある話であって、実際に協定の条項を変更しなかったことが、無条件に批判・非難されるべきでないことは、魂のステージが低い私にとっては、常識のように思える。

ちなみに、こうした「例外的なもの」というのは、国際社会においては珍しくはない。
例えば、日本とインドとの平和条約について、平和条約締結前に戦争状態を終了し、国交を回復している。「平和条約」締結前の戦争状態終了とは、「平和条約」の意味をなさないことになるわけで、通常ではありえないが、条約締結は、場合によっては批准を必要とし、そして、今回の平和条約は、手続きに時間がかかる批准を要するものであったため、発効しなければ法的に戦争状態が継続ということを避けたいがために、議会を経ないで済む交換公文による法的措置を選択した、言い換えれば「名より実を取った」ということであって、このために、インドとの不幸な状態は、かなり早期に解消されたわけである。

そのようなことがあっても、魂のステージが高い方たちは、やはり、「運用上の改善」や「好意的な考慮」が、「法的な義務ではない」ということについて疑念があるために、協定そのものの変更を迫りたいらしい。私も協定の改定が望ましいのは同意だが、協定変更のための審議で、東アジアの安定に影響を及ぼす安保体制そのもので時間を稼がれた場合、協定変更までは沖縄の事件があっても、「好意的考慮」がなされないため、「起訴後まで引渡しがなされない」ということが起こりうるわけで、この点についても、どのようにお考えなのか、本気で伺いたいと願っている。
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「疎外された」民衆の「うめき」

>米軍基地がなければ、米兵によるこうした犯罪は「ない」。当たり前である、そもそも「米兵」が「いない」のだから。しかし、これを言ってしまえば、「1人2人の外国人が犯罪を犯したら、その外国人を全員日本から追い出せ」となってしまうし、「○○県民の1人が犯罪を犯せば、○○県民全員を日本から追い出せ」となってしまう。
TBありがとうございます。WAKUWAKUさんのこの言は正論ですね。
排外主義とあまりかわらない感情論に陥りやすいのが、「少女或いは幼児」「強姦」「軍隊」といったデリケートな問題の場合、確かに多いです。あの冷静な平和主義にしてヒューマニストの佐藤弘弥さんでも、時々「感情」に揺らぐ時があるようですから、なかなか難しいんだと思います。。
http://blogs.dion.ne.jp/ivanat/archives/6602890.html
「阿Q正伝」という作品で、主人公は子孫を残したいと「事件」を起こす。で、「出入り」禁止と主人に厳命されてしまう。彼が子孫(づくり)を欲したのは、「供養してくれる」存在が無いと、死後も存命中同様、「放浪≒乞食生活」をして人々から蔑まれ続けると信じていたからです。「血縁親戚ネットワーク」から「疎外された」存在こそが「革命」や「新世界」=「帝国」への「ビルトイン」を望むって言うのが、この作品の主題の1つでしょうし、その「悲喜劇」は今日の日本&世界で繰り返し起きているのでしょう。こういった「心の襞」にくい込む論述も無いと、こういった「ごちゃごたっや」の社会状況を、安定化させることは不可能やと、思います。
難しい法律論や国際関係論の根っこは、「疎外された」民衆のこういった「うめき」に由来しているんですから。その点で例えば、「お玉おばさん」のブログ等、通りいっぺんゃナあと、危惧してますね。
色んな人らが集まってくる「開放感」はあるんでしょうけど、スローガンの連呼しかない。
選挙カーみたいで詰まんない気がしてます。それってブログの特性を否定してるようですもの。まあ、この辺りは今後うちのログで、かいていきますわ。「主権」のこととかも。
そそ節には、是非おいでくださいませ。

TBありがとうございます

記事拝見させていただきました。拝見させていただきましたが、私にはwakuwakuさんの論旨がさっぱり理解できない。魂のステージが高いからでしょうか(笑)。

>しかし、この事件をきっかけにして、感情論として「日米安保廃棄」を唱えるのは同意できても、魂のステージが低い私は、理性的には同意できない。

まさしくこの事件の本質は感情論なのではないでしょうか? 米兵に酷い目に遭わされた。だから、出て行け! という感情論。親族が殺された。だから死刑にしろ! というのと同じで。

お玉さんのところで死刑廃止論を巡る議論が行われましたが、あのとき、私とwakuwakuさんとは、廃止vs残置と立場は違っても、遺族の感情には真摯に向き合わねばならないという点では同意を見たと考えています。ならば、この問題についても、民衆の感情論に真摯に向き合わねばならないという点においては、理性的にも同意を得られると思うのですが。

私は安保存続には反対の立場です。その点でまたもやwakuwakuさんとは立場を異にしますが、この記事で主張されている論点は理性的には十分に議論の価値はあると考えます。しかしながら、どうしても感情的にならざるを得ない今回のケースにおいて、こうした理性論を持ち出すのは理性的ではない。こうした場合、理性はむしろ感情を煽り立てる方向に作用することは、死刑を巡る議論と同じでしょう。論旨を理解できないとしたのは、感情に理性を対置させることを指していったものです。

このような場合、論点に挙げるべきは、いかにして被害者およびその周辺の者たち(基地周辺住民)の感情を慰撫するか、ここが第一であると思います。その議論の末、安保廃棄、基地撤退という結論もありえるでしょう(遺族感情を慰撫するのに、死刑以外ありえないとなれば死刑存続もやむをえないのと同様に)。ただし、最初に結論ありきはいただけない。その点では、一部左派の主張に私も違和感を感じないわけではありません。

愚樵さんへ

>まさしくこの事件の本質は感情論なのではないでしょうか? 米兵に酷い目に遭わされた。だから、出て行け! という感情論。親族が殺された。だから死刑にしろ! というのと同じで。
>しかしながら、どうしても感情的にならざるを得ない今回のケースにおいて、こうした理性論を持ち出すのは理性的ではない。こうした場合、理性はむしろ感情を煽り立てる方向に作用することは、死刑を巡る議論と同じでしょう。論旨を理解できないとしたのは、感情に理性を対置させることを指していったものです。

私は死刑廃止論そのものに反対しているわけではありません。死刑を実際に廃止したとき、死刑を望む被害者遺族の心情にどう向き合うのか、ということを棚上げしている言論に対して、教育的指導をしているに過ぎないのです。
基地問題については、私は、死刑廃止論争でいえば、死刑廃止の立場と同様の立ち位置になってしまうわけだが、それはきちんと理解しております。

もちろん、基地設置ありき、でもなければ、日米地位協定が現状でよい、というものでもありません。最大公約数を見出していくこと、そしてそれに対する不安や不満を正面から受け止めること。
設置に賛同する側としては、基地の必要性や日米安保体制・日米地位協定の意義を理性的に伝える責任があると思いますが、同時に、「理解も同意もできないかも知れない。確かに不安だろうし不満であろう。そのことについては申し訳なく思っている。とても納得できるものではないとは思うが、最大限のことはさせていただくし、少なくとも心情を理解するように努力する。」という姿勢が大切であることは、よく認識しております。

まず住民感情として、事件の根本に「基地」。そして「基地」の存在担保たる安保条約、そして、犯行が行われやすい土壌になっているという「日米地位協定」という批判は、論理としては否定できるものではない。
 ただし、あえて考える必要があるのは、基地ではなく工場として外国人と抱えている地域がこのような批判はしないことにある。群馬県の大泉、太田の両市町村は沖縄の比ではなく外国人が多いにしても、外国人犯罪で、外国人排斥に近いような言動はない。
これは、両市町村が外国人労働者とそれを抱えている基幹産業に依存している自覚もあるからである。(沖縄も基地依存経済であるのは両市町村以上であろう)
 なにも被害者を批判することはしないが、大泉・太田の両市町村では外国人犯罪が多発しているわけでもない。
ここらは何故なのか?冥王星が回答を用意することはできないが、日米地位協定以外の要因もあるだろう。しかし、沖縄自身にも問題がない・・と言い切れるのだろうか?
 
 次に日米安保であるが、言うまでもなく単純に日本国内の防衛という領域を超えている条約であることに留意が必要である。
 現状の沖縄基地の存在が極東地域の安全に過去も将来も寄与し続けるだろうことは理解できると思う。(将来的に宥和もあるだろうが)
 日米安保条約がアメリカによる日本の監視体制という理解もあるが、もっとも重要なのは単なる二国間安全保障の領域では留まらない存在であることだろう。
 日米安保の評価は様々な視座で行うべきであろうが、単純な国内問題、日米問題の視野では収まらないことは言うまでもないことだろう。
 
 日米地位協定の問題であるが、説明を補足すれば、行政的な補完によって現実的対応を謀ることはあくまでも暫定的であるべき、という批判ならば甘んじるしかないだろう。
 同時に、法的に明記されていても行政レベルでその法環境を補完できないような状態であれば無意味であることも理解してほしいものである。
 日米地位協定に関しては、軍事機密領域まで踏み込む可能を含めて二国間で議論を深める必要があるのは当然のことだろう。

 住民感情として基地の存在が諸悪の根源であるのは理解できる。しかしそのリスクに対するリターンを沖縄は受け取ってしまっていることは事実である。
 仮に、そのリターンを破棄する用意があるにしても、基地移転の難しさはある。ある意味では、沖縄がこのような問題でアメリカとに日本政府に駆け引きのカードを提供していることもある意味では、評価する必要があるだろう。
 本音を言えば、「だったら、沖縄は日本から独立しちゃえばいいんじゃないの?」とも思っている。歴史的に見れば日本であることに疑問が残らないわけでもないし、独立地域としてのアイデンティティもあるだろう。そのような選択肢を自立的に選択肢として提示して、様々な交渉を行いながら、日米関係と沖縄の利益を図るしかないだろう。

 残念なことに、国防問題は自治体が主体的に行動を起こせる領域ではない。
無関係になっている「基地」を知らない国民の理解を得る努力を鑑みて、活動する必要があるのではないだろうか?
 ただ、「自分だけが被害者である」ような言動で国民が理解できる状況ではないこと・・・
それを肝に銘じてアクションを起こしてほしい。
 アクションそのものを否定するつもりもないが、説得力あるメッセージングができていないから、惨状を理解されない・・・という自己批判があっても然るべきだろう。

冥王星は地元の声を多少なりとも知っているのだが、それにしたって、悲劇のヒロインを演じてるだけで、伝わってこないのである。
 伝わないのは、沖縄自身のエゴイズムがあることだけではなく、自身も新たなリスクを負う覚悟もないからこそ・・・・だと思えてならない。

 厳しいようだが、沖縄の感情が伝わらないのが現状であると分析している。政治的な論理では当然、沖縄が不利にしても、感情論での国民のアクションを期待しているなら、方法論も少し考えないと届くものではないし、届いたとしても、それが沖縄の我侭としか解釈されない・・・・とも思うのだが・・・・


 
 
プロフィール

わくわく44

Author:わくわく44
地球温暖化の流れに逆行して、財布の中身は常に氷河期到来している、「生活は庶民以下でも、志は貴族」(←鈴木邦男氏・談)と、言える日は来ないだろうなぁ・・・。

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