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改正教育基本法の訴訟について

今回の記事はチャレンジである。この分野については、さほど専門性を持ち合わせているわけではない上に、裁判は、本来、判例を研究して論評するのが普通なのだが、今回は判決理由がなく「却下」のケースであるため、訴状を読んでコメントしたいと思う。なお、私の解釈に不適切な箇所があろうことは十分予測されるので、コメントをいただければ幸甚である。



第2、改正教育基本法の憲法違反

 1、権力拘束規範から子供・親・市民への命令規範へ
―教育勅語への回帰―

『これらの規定に顕著に見られるように、改正教育基本法は、〈権力拘束規範〉であった改正前教育基本法の本質を大きく転換し、これを〈子供・親・市民への命令規範〉にもしようとするものであり、法の基本性格を変質させたものであると言ってよい。』
『しかし、法や規範への忠誠を国民・市民に求めるのは、そもそも〈忠誠の排除〉を求めて「教育勅語」に代えて新しく定めた改正前教育基本法を「父母ニ孝ニ」に始まる徳目の最後に「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」と挙げていた「教育勅語」に、再び限りなく回帰させようとするものである。』


1.まず、この規定は「忠誠義務」ではない国民全体の努力がなければ法が有名無実化するものに対しては、「罰則で強制力を持たせる」ほかに「努力目標として、あえて条文に規定する」場合がある。これは後者のケースである。ゆえに、この規定の存在が教育勅語につながるがごとき論は、論理が飛躍しすぎとしかいえない。

2.この規定が削除すべきだとするのであれば、児童福祉法第1条や第2条、予防接種法、地球温暖化対策推進法における国民の義務も削除されねばならない。いやしくも司法判断を仰ぐというのであれば、この法規が存在することを認識した上で行うべきであろう。




2、憲法及び子どもの権利条約違反の改正教育基本法


『改正前教育基本法が、教育の基本理念と基本原理を定めた〈教育憲法〉であるだけではなく、憲法価値を実現するために憲法と不可分一体なものとして定められた〈準憲法的性格〉を持つ基本法であることは、既に憲法の制定審議過程における田中耕太郎文部大臣(当時)の答弁や教育刷新委員会の審議録において明記されており、また旭川学力テスト事件に関する最高裁大法廷判決(1976年5月21日)の中でも確認されている。改正前教育基本法は、憲法価値を積極的に実現する教育の基本法として定められたわけであるから、その「見直し」「改正」にあたっても、憲法に照らし合わせて行わなければならないことは言うまでもない。

これは私も支持する通説ではある。
しかし、憲法と照合して適切か不適切かについて、明確なコモンセンスは存在しない。すなわち、憲法に合致または合致しないという「判断」は、コンセンサスを醸成するより他に方法がないのも事実であるコンセンサスの醸成によって決せられる事項を司法判断することは、国民主権の原則からすれば、残念ながら「不可能」というより他に言葉がない。



3、教育目的を有為な国民の育成とする憲法違反の改正教育基本法


『教育をこのように、一人ひとりの人間の自己形成を支え育むものとして捉えてゆこうとする立場は、ひとり憲法だけがとっているわけではない。子どもの権利条約29条は、教育の目的として、子どもが自己の「能力をその可能性の最大限度まで発達させる」ことや、「自由な社会における責任ある生活のために…準備する」ことを権利として保障している。子どもの権利委員会は、その意味について、先に述べた〈一般的意見〉の中で、「この条文は、子ども中心の教育というメッセージを強調している」としたうえで、「教育を、子ども中心の、子どもにやさしいもの」にするとともに、「教育の全般的目的は、自由な社会に全面的にかつ責任をもって参加するための子どもの能力及び機会を最大限に増進することにある」と強調し、国際的に承認される教育が「子どもにライフスキルを与え…人間としての尊厳、自尊感情および自信を発達させることにより、子どもをエンパワーすることにある」として子ども本位の教育観を明確に採っている。』
『しかし、「国民の育成」を教育目的として設定することは、教育を個人人格のためではなく国家のために営むことを意味しており、教育を目的論的にとらえ、国家目的の道具に貶めようとすることにほかならないので、憲法や子どもの権利条約などの国際準則が採っている個人人格本位主義とでもいうべき立場に反し、これと相容れないことは明らかである。』


おそらく、「国民」の定義を、「国家の従属物」あるいは「国家の構成員」としてのみ捉えているがゆえのコメントであろう。
しかし、原告は不思議なロジックを展開している。あれほど日本国憲法をタテにしている原告が「国民の育成」=「国家のために」とするのは疑問を抱くより他にない。なぜなら、日本国憲法が規定している「国民」は「個人として尊重される」「個人の尊厳」を保障され、「幸福追求権を保障されて」ている「国民」であるからだ。
百歩譲って、「国家の構成員として育成する」というのであったとしても、「自分自身(=国家権力)をコントロールする最大の権力者(=主権者)を育てる」という、言い換えれば「自分を倒す敵を、自分をコテンパンに倒せるように懇切丁寧に育てる」のである。
この文章を書くこと自体、原告が自らを主権者ではなく「君主に仕える哀れな民衆」としか思っていないのではないだろうか、と疑いたくなる。



4、教育目標の法定と〈政府言論〉としての「国を愛する」態度の求めは、思想・良心の自由の保障に反し、違憲である。


『「我が国と郷土を愛する」態度を養うとの点について、まず「郷土」は、私たちの身近に存するものとして、ある種の実体的イメージを持ったものとして具体的に把握することができるのに対して、「国」は近代国民国家ではステートとして何よりも統治機構であり、権力機構として抽象的なイメージしか持ち得ない、かなり観念的な存在である。二つは質的に異なっており、同列には並べられないはずである。私たちの実感においても、郷土を愛することと、国を愛することとの間には大きな隔たりがあり、郷土を愛し郷土に親近感を持つことが、すぐさま国に同様な気持ちを抱くことへとつながらないことは、日常的にも経験しているとことである。それにもかかわらず、二つを同列に並べて、愛する(態度を養う)対象とすることは、結局、郷土への自然な感情をもって、政治的共同体としての国に対する同様の感情の惹起を擬制しようとするものである。そうした擬制は、かつてナチス・ドイツが、国民の愛国心を高揚させる目的で、「郷土愛」(heimat liebe)の教育を組織的に行ったという歴史を想起させずにはおかない事柄である。』


お粗末すぎる言説である。
「国を愛する」というのを「国家に対する忠誠」とだけ捉えるのは、日本の、特にこうした人たちの専売特許のようなものであるが、「Patriotism」と英訳される愛国心もあることが抜けすぎている。
「Patriotism」は、「郷土を愛する」といった方が適切であろうが、普通に政治学からみれば、改正教育基本法に「伝統と文化の尊重」を出してきていることは、法は、こちらを重視していると解釈すべきなのだが、独断と偏見で過去の歴史に捉われすぎているがゆえの稚拙な文章なのだろう。もっとも、PatriotismとNationalismが対立概念となりうることを、おそらく原告は知らないのかも知れない。

それはさておき、「国を愛する」という言葉については、諸説様々あり、具体的に定義されているものでもなければ、定義すること自体が困難なものである。過去の歴史は確かに存在し、その方向性の懸念を払拭できないという「気持ち」は理解するし、確かに、そうした側面の政治的発言が見られるのも事実であるが、「伝統と文化」や「社会の乱れ」「公共心の欠如」を単に懸念している発言もあるわけで、訴状において、「愛国心=過去の忠君愛国」と、一方の発言のみをピックアップして断言しきるというのは、「政府や文部科学省の意図は、本当にそれなのか?」と疑問視されても仕方がないだろう。「AとBとCのいずれもあるが、傾向としてこれが目的と解される動きが具体的にある」としなければ、お話にならない。
さらに、原告に味方する側の愚かさも同時に指摘しておくことになるが、自衛隊の海外派遣の動きと教育基本法の改定をリンクさせすぎである。自衛隊は人員において縮小傾向にあり、予算も削減傾向にある。これを「軍拡」とする東○南北や薩○長州といった論外のブロガーもいるが、海外派遣=軍拡ではないし、また軍事知識があまりになさすぎる人が軽々しく「軍拡」と唱える愚かさを自覚すべきである。

『いずれにしても、「郷土や国を愛する心」とりわけ「国を愛する心」を公教育の場で強調することは、何よりも思想・良心の自由の保障を第一義的に重視している憲法の立場に抵触する。そもそも人が個として国家との間でどのような距離・スタンスをとるかは、その人の根元的な生存の姿勢に深くかかわっており、個人人格の核をなすものとして自由に選択できることができるはずである。国家は個人の内面的価値のありように関心を持たないし持ってもいけないという近代国民国家の基本原理は、近代憲法典の多くが良心の自由の保障条項を真っ先に掲げている点に端的に表れている。』


訴状に列挙された文章の稚拙さをみれば、原告は、要するにここを言いたいのであろう。ただ、これは原告が自爆しているといえる箇所ですらある。
情操教育は、人権の概念を普及させるためには欠かせないはずであるし、また原告側としては、「人権教育」を強力に推進してきた人も多いと見受けられる。そもそも「人権」ですら「概念」に過ぎないのであって、自然界に当然に存在するものではない人は生まれながらにして、先天的に差異が存在する。それを「長所と短所」という人もいるが、それはともかく、「同じだけ勉強しても点数が違う」「同じだけ動いても速さが違う」等、そもそも人は平等ではない本来平等ではない人間を「人格として平等」とし、そして、「誰しも、人は、基本的に人権をすべて持っている」とあえてコモンセンスを確立させたわけだから、「自然状態では必ずしも普及しないであろう「人権」の概念を普及させたいのであれば、教師側は子どもたちの「思想信条の自由」を尊重する態度に徹しきれないのは言うまでもない。
どの中身を子どもたちに普及させるのか、という違いはあれど、「思想信条の自由を尊重する態度に徹しきるわけにはいかない」のは同じであって憲法第19条を持ち出すのであれば、改正前の教育基本法の『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』という文言も削除すべきであろう。個人の価値を尊ぶかどうかも自由、勤労と責任を軽んじるのも自由、自主的精神を抱くも抱かないも自由。妄想と悪魔を愛するのも自由。戦争大好き、人殺し大好きになるのも自由。憲法第19条の規定を教育に完全に反映させるのであれば、これらの思想信条を抱くことを教育は妨げてはいけないはずである。



5、「国を愛する態度」を養うことを教育目標とすることは、子どもの権利条約・最高裁旭川学力テスト判決に反する。


『また、子どもの権利条約29条1項⒞は、「子ども自身の文化的同一性、言語及び価値の尊重、子どもの居住国及び出身国の国民的価値の尊重並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」を教育の目的として特にあげている。先の〈一般的意見〉によれば、この規定は、「教育が広範な価値観を指向して行われること」を求めており、いわゆる「多文化共生教育」を公教育において実施することを要請しているとされている。この「多文化共生教育」を公教育において日本に住むすべての子どもに対して行いながら、他方で、ことさらに特定の「国を愛する」態度を子どもに求めるならば、子どもたちの内心に新たな緊張・葛藤や内的矛盾を感じさせ、子どもたちの集団にいわれのない疎外や排除、差別などを引き起こすことになるおそれがある。。「国を愛する」態度を養うことを教育目標に据えることは、子どもの権利条約の規定からも同条約違反であるとの厳しい批判にさらされるのである。』


これについては、改正後の教育基本法を読んでいないのではないだろうか、と疑ってしまうだけの文章である。
「国を愛する」からといって「他国を排斥する」とリンクするロジックが皆無とは言わない。しかし、『他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。』と同時並行で教育の目的を設定しているにも関わらず、「国を愛する態度を養う」ことが、なぜ、多文化共生教育と矛盾し、排除・疎外・差別を惹起するのか、ましてや子どもの権利条約違反だと決め付けられるロジックをどのように形成しているのか、原告側はまったく説明していない。



6、改正教育基本法16条の憲法違反


『すなわち、教育は「不当な支配に服することなく」「法律の定めるところにより行われるべき」とすることは、法律に根拠がある限り、教育行政による教育内容への過度な介入も適法化されて、「不当な支配」に該当しないことになるおそれがある。他方、法律に定められたもの以外、たとえば、教師や子ども、保護者、地域の人々の意見などは、「不当な支配」として排除され、これら現場の声を教育に反映させることができなくなるおそれが生じる。こうして、残された「不当な支配に服することなく」という文言は、法規範として全く逆の意味を持つことになる。』
『このように、改正前10を解体し、16条と17条に組み換えることはときの政治権力が教育内容を統制し教育現場の自主性・自律性を剥奪するための法的整備であると言うより他ないことになる。これにより、教育基本法は、教育の自主性保障法から教育の権力統制法へと、180度転換させられたことになる。』


これも愚か極まりない文章である。

1.「不当な支配」を定義づける客観的な法令・判例はない。これがない以上、何が「不当な支配」に該当するのかを明確に定める何かが必要である。それを強制力を持って最も決定しうるのは、日本国の場合は「法律」であることは言うまでもない。

2.どの道、「不当な支配」にしても、それを強制力を伴って排除するには、「法律」の制定が必要となる。学習指導要領に教員が従う義務がないという最高裁判決が出たのは、「指導要領」が「強制力のある「法律」ではない」というのが最も強力な根拠であると考えるのは想像に難くない。改正前の教育基本法においても、「学習指導要領」が「法制化」された場合、違憲訴訟の裁判を提起しても、やはり棄却された可能性は極めて高い。これは、国会が国民に選挙された代表者で組織された「国権の最高機関」であり、学習指導要領の法制化の是非は立法府の裁量を排除しうるのは、明確に国民の権利利益が侵害される(怖れがある)場合に限定されなければ、司法判断が国民の意思を上回る危険性をはらむことでも明らかである。(どのように公教育を行うべきか、についての最終判断は、やはり国民に委ねられるものであって、司法が判断するものではないであろう。)



第3、やらせによる違法なタウンミーティングにより世論を誘導して成立した違法・違憲の改正教育基本法。


もし、弁護士か学者が、これを訴状に入れたというのであれば、むしろ、弁護士資格や学者としての資質を疑うより他にない。
これを言えば、米軍移転や自衛隊基地の是非を問う住民投票のことを持ち出す人もいるだろうが、住民投票の法的効力の有無以前の話である。TMの違法性の有無は関係ない。なぜならば、TMは最悪でも世論誘導、通常ならば「意見聴取」ぐらいのものでしかなく、あくまでも「参考程度」にしかならない代物であり、もっと言えば、憲法の規定からすれば、教育基本法の改廃に関してそもそもTMを行う必要性すらない。必要性がないTMの違法性や実態を根拠に教育基本法改定の違憲訴訟を起こすとは、もはや弁護士たる資格などないし、学者なら、即刻辞任すべきである。

弁護士なら、道義的裁判報酬詐欺

国公立大教員なら、道義的公金詐欺

私立大教員なら、道義的私学助成金詐欺





第6、損害


被告らは、前代未聞の日本国憲法の破壊行為を行った者であり、憲法上、公職選挙法上、国家公務員法上の重大な責任を負わなければならない。』
『単なる損害論の域を超えた甚大な損害を被告らは、選挙民であり主権者である原告らに与えたもので、正に懲罰的損害論が予定している損害を原告らに与えた場合に当たる』。


上記の理由により、明確な憲法違反行為を行ったと断定することは到底不可能である。
仮に百歩譲って憲法違反であったところで、「訴えの利益」が存在しない。原告は、「いかなる権利利益を侵害されたのか」あるいは「いかなる権利利益を侵害される怖れがあるのか」ということを説明できていない。単に「国会で否決できなかった法律を、司法判断させて強引にでも葬り去ろう」というだけの話でしかない。

こんな訴えを裁判所が取り扱うとは到底思えない。
「統治行為論」以前の稚拙で愚かな訴訟だと私は考える。

この改正を廃し、前の教育基本法に戻したいのであれば、前の教育基本法を推進する政治勢力が国会で議席を占めるしか方法はない。もちろん、その結果として前の教育基本法に戻すことは、憲法違反でもなければ、道義的・人道的に容認されえないものでもない。訴状を読んで、実に情けなかった。判決理由の開示を求めたのに、それを言わずに却下されたことに立腹している人が多いようだが理由を述べられなかった方が幸福だったのではないだろうかとさえ思っている。私が裁判官ならば、相手が弁護士や学者ならば、「本当に法律を勉強したの?もう一度勉強しなおしてきたら?」原告を説教してしまうだろうから。
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なんか、ここ最近秀逸な記事が連続で突っ込みが難しいのだが、いくつか

(はじめに)
元記事において教育基本法のどこがどう解釈されているのか・・その具体的な指摘が分からないのだが、概ね、教育基本法のスタンスの法的拘束の実効性については現実的には懐疑的になるしかない。
言うまでもないが、玉虫色の条文であり解釈猶予を過分に残している部分では適当な解釈がまかり通る部分での法整備の課題という問題点があるので、教育基本法よりも改正された周辺の教育三法を個別に提示して、論じるのは本来のあるべき姿であろう。
ぶっちゃけいえば、教育基本法よりも関連教育三法の改正の方が、教育現場には多大な影響力があるわけであり、まずもって、教育基本法の視座だけで明確な議論ができることはないと思われる。つまり、問題点としての教育基本法がザル法であって、見るべき課題が理解できてないからこそ、教育基本を論じることになってるのだろう。


いわゆる努力目標的な条文の実効性の問題は高度な政治論であるので割愛するとして、指摘にあるとおりに、教育基本法だけではなく憲法前文における努力目標さえも忠誠義務解釈を行い違憲判断が可能であるなら、多くの法律の前文、1条などは違憲判断されかねないことになる。
もちろん、それらの違憲性を論じるならば、否定しないが、一方だけを槍玉にするような言動ならば、それこそ整合性も付かないガキの都合理論、もしくは、コンニャクのような理論武装にしか過ぎない


>憲法と照合して適切か不適切かについて、明確なコモンセンスは存在しない。すなわち、憲法に合致または合致しないという「判断」は、コンセンサスを醸成するより他に方法がないのも事実である。コンセンサスの醸成によって決せられる事項を司法判断することは、国民主権の原則からすれば、残念ながら「不可能」というより他に言葉がない。

ここらは統治行為論の問題でしばしば我侭な有権者が言うことだが、司法権は国民主権の担保がもっとも薄いといえる権力であるからこそ、司法自身が襟を正して、法の番人の意識よりも国民主権の尊重して、判断を留保しているのであって、無能な人間の統治行為論批判などは論外である。


国家とは、国民の生命・財産を守るために存在することは近代国家の肖像として言うまでもない。しかし、国民の自由意志を全否定してまで教育の権利が国家にあるのか?というのは基本法でも、教育の第一義責任として国家はその責を放棄しているとも言える。ここらからすれば、国家の目的とは「国民の生命・財産」の保護を福利厚生に関わる事項であって、なにも国民の自由意志を否定しきれているわけではないだろう。
主権はあくまでも国家の構成員でしかなく、国家が恣意的に活用できるような道具ではないのも、憲法の自由権規定からも想定されるものであって、危惧することは、明らかに行き過ぎた解釈論ではなく、妄想の類でしかない。
現実的には、その妄想が具現化してから批判するべきであって、具現化してからでも対応措置は遅くは無い。


愛すという解釈が非常に難しい抽象論であることは言うまでもない。
その身を投げ打ってまで愛せ、とまで言わないし、言えない以上は、危惧する必要性はないとは思われるが・・・
そもそも愛し方は様々である。義務的に継続的に国民が国家を愛す必要性はないわけであり、国家としての機能性を失った段階では愛国心を捨てることも問題ないだろう。愛などは冷めることもあるわけであり、愛という抽象論でどう糾弾できるのだろうか?
ここらは、頭のおかしい愛国者の言動なんぞ視座に入れてるアフォには理解できないかもしれないが。


まぁ、刑法91条では、他国の国旗を損壊してはならないわけだが、わが国の国旗はそれに非ずというのは、微妙ではある。
91条改正論は冥王星は愛国心否定派であっても、自国の国旗であろうと器物である限りは、損壊してはならないはずだ。内心の自由のために財産権を侵されるなどありえない話であろう。


不当である認証は個人でもできるが、不当とするロジックに妥当性がないのでは、「不当だと思ってる」程度でしかない。
不当性とは様々な視座で確立する問題だが、法や常識というものは、個人の価値観で確定するものではなく、構成員全てで規定するべきものである。
誰かが不当だと言ったから、不当だ・・なんてのは社会秩序の構築さえできない社会になるのが現実だろう。
もっとも、不当であるロジックがロジックにさえならないレベルでは、説得力もないし、妥当性を見出せる人を感化できないような反論では、到底、ロジックとしては有効性がない。
理論というものは、空想の産物であることもあり、具現化した状況においてはその理論が確実に具現化するものはないことも言うまでもない。
ついでに言えば、概念観念論の段階の理論展開ではなく、想定される具体的事例を挙げて問題提起するべきだろう。
そもそも立法化された事象を個別に抽象論で議論したとして、どこまで意味を為すのだろうか?杞憂に終わることは幸いだが、立法化して”どのような事例ではどういう判断が行われてしまいどういう弊害がでるのか?”という具体的な問題提起がほとんど出来ていない。
その理由は、それだけ法的に曖昧であることに論点がつきるのである。
最初に述べたが、問題にするべきは具体的に影響力のある関連教育三法であろう。
もっとも、現場はそっちでも実効性、拘束性の課題を残した法律として、案外冷ややかな見方をするのであるが、現場を知らない人間が、さも現場を知ってるように言い出すから、怖い話である。
プロフィール

わくわく44

Author:わくわく44
地球温暖化の流れに逆行して、財布の中身は常に氷河期到来している、「生活は庶民以下でも、志は貴族」(←鈴木邦男氏・談)と、言える日は来ないだろうなぁ・・・。

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