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不思議な経験

 あるとき、知人の葬式に参列したことがあるのですが、喪服姿の人が仏壇(らしきもの)の前で、数人がお経を唱えていて、「あれ?お坊さんいない・・・。」と不思議な思いをしました。
隣の人に聞いたところ「創価学会です」と返答されました。
 よくよく見れば、「南無妙法蓮華経」って言っていましたから、確かに私が慣れている宗派とは違っていたんですが。

 私は、先祖代々、浄土真宗です。浄土真宗のお寺の檀家でもあり、葬式にはお坊さんがいるのが当たり前ですし、お経は「南無阿弥陀仏」です。


『当たり前のことが当たり前ではない』


 同じ日本国内でも、こうした違いがあるわけですから、世界・国際社会で価値観が違うというのも、また、むしろ当然のことなんだなぁ、って思ったものです。
 ただし、浄土真宗のお寺の住職さん、お孫さんに「クリスマスプレゼント買わないとなぁ」と言っていたぐらいファジーです。生活にあまりに密着しすぎていて、逆に信仰心が薄れている、ということですね。

 余談ですが、私、『聖教新聞』というのが、キリスト教関連の新聞かなって、高校のときまで思っていました。地域的に創価学会の人が皆無なので、聖教新聞という名前は知っていましたが、見たこともなければ読んだこともないわけで、「聖」という文字で思い込んでいただけです。ちなみに、共産党もほとんど目にしないほどのマイノリティな存在です。
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ネット規制、私は賛成

衝撃的なタイトルですが、仕方がないでしょう。

私のコメントを拒絶したり、私へ嫌悪感を抱くという、態度や感情、思想や感性は、はっきり言って「基本的人権を享受するにふさわしい人間ではない」ことを証明してしまっています。

健全な良識のある民主国家の構成員ならば

私のコメントを拒絶せず、私に勧告されたら反省し、

私を嫌悪するべからず!!

これができないなら、文明の名において、日本国憲法を停止し、GHQにでも占領してもらいましょう。それか、江戸幕府を復活させて身分制社会に戻すこと。(もちろん、私は権力側にいなければ話になりません。)

今の日本人の基本的人権執行状況は、自由を求めて命を賭けた人たちに対して顔向けできないほど破廉恥な状態です。

以上、一切の反論は、これを許可しない。

NHK、またやらかしたか・・・。

どうもこうも、NHKがおかしい。

橋下大阪府知事の事件ですが、遅刻の経緯はともかくとして、あのアナウンサーの「30分遅刻ですね」はあまりに失礼です。相手は大阪府知事、いつイレギュラーな公務が入るかわからない、遅刻程度は「想定の範囲内」の相手に対して「遅刻ですね」はいただけない。「ご多忙のところ、ありがとうございます。」が挨拶の常識でしょう。橋下知事は「遅れて申し訳ございません。」と挨拶しているのにも関わらず。
こう書けば、「いや、元々公務ではない仕事を入れた」だとか、「アナウンサーは皮肉ったのだ」だとか、そういう反論がくるでしょう。しかし、このような感情は一切の正当性を持ちません。おそらく「橋下憎し」での感情なのでしょうが、これがきっと自分たちの支持する人が知事であれば、NHKへの憎悪を抱いていたと断言せざるをえない下劣な感情だからです。

岩国でも井原前市長が敗北し、東京では石原知事が三選。全体的に自公側の議席は減りましたが、注目の選挙は、すべて私へ嫌悪感を抱く愚か者たちが支持する人が落選しているわけですが、なぜ自分たちの支持する人が落選するのか、私への嫌悪感や拒絶を真摯に反省し、感情と態度を改めない限り、その理由を理解することは永遠にないでしょう。
誤解を招いてはいけないので、言っておきますが、私は岩国市長選挙で福田氏当選を期待していたわけではありませんし、井原氏落選を希望していたわけではありません。東京については、石原氏よりは浅野氏に期待をしていたので、むしろあの選挙結果は残念だなと感じています。


ところで、NHKが「やらかした」事件としては、NHK大河ドラマ「篤姫」で、島津家発祥の地について、鹿児島県出水市と放映したことに関して、宮崎県都城市が異議を唱えたという事件がありましたね。
元々島津氏は、鎌倉時代に守護として薩摩・大隈あたりに来た鎌倉幕府の御家人ですが、今から800年ぐらい前の話ですから、アバウトであることは間違いありません。「発祥の地と言われいてる」というような感じで、出水と都城を両論併記で放映していれば、と思いますが、このあたりもNHKは不感症になったのか、注意不足でしたね。

ちなみに、島津=薩摩・鹿児島というイメージが全国的には多いですが、江戸時代の薩摩藩77万石とは、薩摩・大隈・日向の一部と琉球を合算したものであって、薩摩と大隈だけではありません。鹿児島県・沖縄県と宮崎県の一部を支配していたのです。関が原の戦いで西軍になった大名の中で、唯一領地を削られなかった大名として、幕末まで続いています。


余談ですが、歴史については、結構、誤解があります。

「三本の矢」で有名な毛利氏は、広島城や吉田郡山城、長州藩としての萩が本拠地として有名ですが、元々は相模に「毛利荘」という荘園があったそうです。そこが発祥地と言われています。大江広元の子孫である毛利季光という御家人が、鎌倉時代に評定衆となっています。宝治合戦において、三浦氏に加担して敗北し、季光自身は戦死か自害をしたわけですが、その子孫が相模から落ち延びたといわれています。つまり、毛利は元々は神奈川の人、ということになります。

鎌倉幕府の「執権」は、御家人の「主人」ではありません。「主君」はあくまでも「鎌倉殿」であって、執権は、御家人の中で相対的に最も高い地位というだけの話です。
NHK大河ドラマで「北条時宗」がありましたが、時宗の妻の兄である安達泰盛との関係は、公式の場では「執権と評定衆」で、時宗が上座でしたが、プライベートでは泰盛が時宗の上座になります。もっとも、泰盛は、元寇のときに「恩賞奉行」でした。「御恩と奉公」で成立していた鎌倉幕府において、「恩賞」の権限は至上のものであり、これを担当したということは、「執権を凌ぐ最高権力者として君臨した」ということになります。つまり、元寇が終わった後、北条時宗が執権であった時期の鎌倉幕府の最高権力者は、北条時宗ではなく、安達泰盛だったのです。足利尊氏も地位は高く、妻の兄である最後の執権北条守時との関係では、「義理の兄弟」という意味での上下であって、主君と家来の関係の上下ではありません。従って、守時と尊氏の関係については、プライベートでの用事があれば、守時が尊氏の邸宅を訪れることになります。そもそも公式の場合は、邸宅ではなく侍所等の「役所」に呼ぶだけです。

室町幕府最後の将軍、足利義昭は、室町幕府が滅びた後も「征夷大将軍」でした。豊臣秀吉の「文禄慶長の役」のとき、九州に陣を構えています。死去は1597年で、これは秀吉が死去する前年のことです。

江戸幕府の序列は石高ではなく、官位です。『忠臣蔵』で有名な浅野内匠頭と吉良上野介との関係は、5万石の大名である浅野が、なぜ3000石の旗本である吉良に頭を下げたのかといえば、従五位下である浅野に対して、吉良は従四位上だったからなんですね。

参勤交代も、譜代や中小の外様大名は「将軍の家来」のような扱いでの参勤交代でしたが、前田、島津、伊達といった外様の大大名になれば、「客分」としての扱いだったそうです。これら外様の大大名が参勤交代で江戸に来たときは、老中が大名を訪問して挨拶していたそうです。

もっと探れば、もっとおもしろくなります、歴史は。

沖縄の米兵事件で安保破棄を迫る人たち

沖縄での米兵の少女暴行事件は、1995年の事件を再び思い起こした。また、私自身、こうした米兵の事件については、憤りを感じ、そして、日米地位協定の改善等を図っていかなければならないと考える。

しかし、この事件をきっかけにして、感情論として「日米安保廃棄」を唱えるのは同意できても、魂のステージが低い私は、理性的には同意できない。
なぜなら、日米安保条約や日米地位協定が引き起こした事件ではないからである。

確かに米軍基地がなければ、米兵によるこうした犯罪は「ない」。当たり前である、そもそも「米兵」が「いない」のだから。
しかし、これを言ってしまえば、「1人2人の外国人が犯罪を犯したら、その外国人を全員日本から追い出せ」となってしまうし、「○○県民の1人が犯罪を犯せば、○○県民全員を日本から追い出せ」となってしまう。
魂のステージが高いお方たちにとっては、同じロジックが成立しても、米軍と他の外国人は区別しなければならないそうである。なぜなら、魂のステージが高ければ、ロジック以上の理由を認識することができるから、だそうである。


さて、日米安保だが、これは単に日本の安全保障のための条約に過ぎないと思ったら大間違いである。この程度の認識で十分だと考えるほど、私は魂のステージは高くないので、もっと掘り下げて語ることにする。

当初、日米安保条約は、まさに「憲法により軍事力を放棄した日本は、独自で国家主権を防衛する手段を持たない」ということで締結された条約である。
しかし、そこで終わってしまうことに魂のステージの高さが垣間見られている人が実に多い。
安保条約がなぜ東南アジアやオセアニアといった諸国に歓迎されたかといえば、「日本への武力攻撃の可能性は否定できない」「しかし、日本が独自に防衛手段を持てば、再び侵略の脅威となる」という2つの矛盾が発生しているという、正しい認識があったがゆえである。これを『ビンのふた』と称する人もいるが、これを東南アジアもオセアニアも歓迎したのである。

こういえば、魂のステージが高い方たちは、「単独講和だったのがいけない。共産圏や中国本土を含めた講和条約であれば、必要なかった。」と私を説教するだろう。しかし、サンフランシスコ会議において、ソビエトは「修正案」を出している。




八,第八章に,次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本国は,武力をもつて対日戦争に参加したいかなる国を対象とする連合または軍事同盟にも加入しない義務を負う。」


ソビエトは、旧共産圏を巻き込んで「ワルシャワ条約機構」という安全保障の軍事同盟を締結している。日本だけが加入できないというのは、「攻撃されたくなかったら、俺の言うことを聞けよ」と言っているだけである。




九,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本の陸,海,空軍の軍備は自己防衛の任務にのみ供されるように厳格に制限されるべきである。従つて,日本国は,国境警備隊及び憲兵を含めて次にのべる範囲内の軍備を有することが認められる。


 (1) 対空砲兵を含め,総数一五万人の兵力を有する陸軍
 (2) 総数二万五千人の兵力,総トン数七万五千トンの海軍
 (3) 海軍航空部隊を含めて戦闘機及び偵察機二〇〇機,予備機を含めて,輸送機,海空遭難救助機,練習用及び連絡用飛行機一五〇機を有し,総数二万人の兵力を有する空軍。日本国は,機体内部に爆弾積載装置をもつ爆撃機たることを本来の目的として設計されたいかなる航空機をも所有し,または獲得してはならない。
 (4) 日本軍隊の有する中型及び大型戦車の総数は,二〇〇台を越えてはならない。
 (5) 軍隊の兵力は,それぞれの場合に戦闘員,補給整備員及び事務要員を含むものとする。」

修正案を出したソビエトは、いったい、どれだけの兵力を持っていたというのであろうか。
膨大な戦力を有するソビエトに対して、それに対抗できないようにする、というのだけでも、もはや「俺の子分になれ」と言っているに等しいのである




一一,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「日本は,次の諸武器を所有し,製造しまたは実験してはならない。


 (I) すべての原子力兵器,ならびに,細菌兵器,化学兵器を含む他のすべての大量殺傷のための手段
 (II) 一切の自動発進式若しくは誘導式の投射物,あるいはこれらの発射に関連する装置(ただし,本条約によつて保有を許される海軍艦艇の魚雷,同発射管で通常の海軍装備と認められるもの以外のもの)
 (III) 射程三〇キロメートルを超える一切の大砲
 (IV) 接触によらず自動感応装置によつて爆発する機雷または魚雷
 (V) 一切の人間操縦魚雷」

原爆を開発し、長距離ミサイルを開発しておきながら、なんという自分勝手な要求であろうか。要するに「ソビエトに逆らう力を持つなよ」と言っているだけである。こんなものを飲んでまで講和を結ぶとなれば、もはや「奴隷の平和」にしかならない。




十三,第三章に次の新しい一条を加えることとする。すなわち

 「(1) 宗谷海峡,根室海峡の日本側全沿岸及び津軽海峡及び対馬海峡を非武装化する。右の諸海峡は,常にあらゆる国の商船に対して開放されるものとする。
  (2) 本条一項に挙げた諸海峡は,日本海に隣接する諸国に属する軍艦に対してのみ開放されるものとする。」


要するに、宗谷海峡、根室海峡、津軽海峡、対馬海峡は、ソビエトの軍艦は自由に通行できるが、欧米の軍艦は通れないということ、そして「非武装化」されながら「軍艦に対して開放」ということなので「ソビエトが日本を攻撃できるようにしておけ」と言っているだけである。




こんな修正案を飲まなければ講和を結ばないといっている相手とは、魂のステージが低い私なんぞは講和を結びたくないものである。


話がズレてしまったが、日米安保体制とは、単に日本とアメリカとの間の安全保障ではない安保条約破棄というのは、東アジア全体の安全保障の枠組みを激変させることになる重大事である。考慮せねばならないのは、日本だけではない。東南アジアの安全保障の枠組みや朝鮮半島、台湾海峡といった、「日本以外の国々の安全保障」も同時に考えた上でのものでなければ、日本は武力攻撃を受ける危険性がなくても、東アジア全体が不安定になる可能性が出てくるのである。朝鮮半島は、南北の38度線を隔てた軍事緊張と駆け引きがまだ継続中である。
台湾海峡は、中国が「反国家分裂法」という挑発的な法律を作ってしまった。
東南アジアは、中国の軍事的脅威を帯びている。
インドとパキスタンもカシミール問題や核で対立したままであり、インドは中国とも軍事的な駆け引きが続いている。

これらに対する楔として、日米安保体制が機能しているのが現在の国際情勢でもある。ちなみに、米軍は西太平洋においては、防衛・防御という点においては、日本の自衛隊がなくては機能しない。攻撃だけならば、「基地を自由に使わせてもらう」で十分であるが、防御・防衛という面では、基地よりも、「自衛隊の装備や戦力」が「アメリカの頼み」である。とても驚きだが、日本に導入されているイージスシステムがアメリカでも最新式のものであったり、SM-3の新型が日米共同開発(しかも、主力にしようとアメリカが企画している)ということと、上記の国際情勢をみれば、日米安保体制が機能しなければどれだけ怖ろしいことになるのかは、一目瞭然である。

それを全面的に否定し、「非人間的」とまで非難しておいて、この東アジア全体の安全保障を、武力なしで構築するだけの実効性のある具体的かつ詳細な考えがあるのだろうか、私はぜひとも魂のステージが高い方に伺いたい。


日米地位協定に関しての非難も、私は批判する。
日米地位協定第17条第5項のCには「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行うものとする。」とあり、法的には身柄引き渡しは起訴後というのである。この条文が改定されたわけではないことについては、異論の余地はない。
ところが、1995年10月、沖縄の米兵による暴行事件によって、日米合同委員会において、「合衆国は、殺人又は強姦という凶悪な犯罪の特定の場合に日本国が行うことがある被疑者の起訴前の拘禁の移転についてのいかなる要請に対しても好意的な考慮を払う。合衆国は、日本国が考慮されるべきと信ずるその他の特定の場合について同国が合同委員会において提示することがある特別の見解を十分に考慮する。」として『運用上の改善』がなされている。

これがなぜ、「協定の改定」ではなく、このような「運用上の改善」「好意的考慮」となるのか、といえば、第26条第1項において、「この協定は、日本国及び合衆国によりそれぞれの国内法上の手続に従つて承認されなければならず、その承認を通知する公文が交換されるものとする。」という規定があるためである。説明すれば、「条文そのものを改定するとき」は、日米両国において、議会の承認を得ることが必要となり、時間がかかることもさることながら、反対意見が噴出し、日米双方にとって利害が対立した場合の懸念が生じるためである。
このため、「条文の改定」ではなく「運用の改善」あるいは「『好意的配慮』という名の例外を設定する」という形式をとったに過ぎない。この形であれば、委員会の合意や交換公文、すなわち、極端に言えば、行政権のレベルで事実上の改定ができるのである。もちろん、協定の正式な改定ではない以上、「法的義務」を負うことについては、脆弱性がある。しかしながら、この「合意」は、「公表されている」ものである以上、実際には法的拘束力がある程度発生することも否定しえない。
「法的なもの」と「政治的なもの」、「道義的なもの」の区別は、現実政治にはある話であって、実際に協定の条項を変更しなかったことが、無条件に批判・非難されるべきでないことは、魂のステージが低い私にとっては、常識のように思える。

ちなみに、こうした「例外的なもの」というのは、国際社会においては珍しくはない。
例えば、日本とインドとの平和条約について、平和条約締結前に戦争状態を終了し、国交を回復している。「平和条約」締結前の戦争状態終了とは、「平和条約」の意味をなさないことになるわけで、通常ではありえないが、条約締結は、場合によっては批准を必要とし、そして、今回の平和条約は、手続きに時間がかかる批准を要するものであったため、発効しなければ法的に戦争状態が継続ということを避けたいがために、議会を経ないで済む交換公文による法的措置を選択した、言い換えれば「名より実を取った」ということであって、このために、インドとの不幸な状態は、かなり早期に解消されたわけである。

そのようなことがあっても、魂のステージが高い方たちは、やはり、「運用上の改善」や「好意的な考慮」が、「法的な義務ではない」ということについて疑念があるために、協定そのものの変更を迫りたいらしい。私も協定の改定が望ましいのは同意だが、協定変更のための審議で、東アジアの安定に影響を及ぼす安保体制そのもので時間を稼がれた場合、協定変更までは沖縄の事件があっても、「好意的考慮」がなされないため、「起訴後まで引渡しがなされない」ということが起こりうるわけで、この点についても、どのようにお考えなのか、本気で伺いたいと願っている。

沖縄の米兵事件で安保破棄を迫る人たち・2

このテーマについて2回目を書こうと思う。
というのは、沖縄の米兵事件で「安保破棄だ!」「日米地位協定があるから問題なのだ!」と騒ぐ人たちの魂のステージの高さを語るに、前回だけでは言い切れない部分があるからである。

魂のステージの高い方々は、とんでもない矛盾をしていることにお気づきだろうか?

日米地位協定が問題なのは、在日米軍の兵士についての身柄引き渡しが「起訴後」であること、そして、公務である場合は一次裁判権がアメリカにあることであって、犯罪の惹起そのものではない。これに注意しないで、あたかも日米地位協定が犯罪を引き起こすような言動をしている魂のステージが高いお方がいることに、私は極めて疑問を感じる。


刑法や刑事訴訟法が犯罪を抑止するのか?


話が逸れるが、しばしば死刑廃止論において、「死刑は犯罪の抑止力となっていない」という言動がある。これは間違いである。正しくは、『死刑が犯罪の抑止力となっていると証明できない』のである。
これは死刑に限った話ではなく、刑罰の存在が犯罪の抑止となっているかどうかは、人の心の話であって、第三者が感情を正確に証明する方法がない以上、死刑を含めた刑罰のすべてが、犯罪の抑止力となっているかどうかは、「わからない」のである。

ところで、日米地位協定の話に戻そう。
日米地位協定において定められているのは「犯罪者の措置」であって、「犯罪の抑止」ではない。刑法も、「犯罪者の措置」を定めているに過ぎず、刑事訴訟法は、刑法を適用するための行政と司法の手続きを定めているに過ぎない。ともに、直接的には、犯罪を抑止することについて何ら定めているわけではないのである。





ただし、刑法の規定は、司法関係者に対しては「この犯罪を犯した者を、この規定の範囲内で処罰する法律行為を行政に要求するように」と要求し、行政関係者に対しては、「この犯罪を犯した者を、司法関係者がこの規定の範囲内で処罰するために必要な措置を講じるように」と要求し、そして、国民には「この犯罪を犯した場合、この規定の範囲内での処罰を行うので、この犯罪をしないように」と要求しているのである。





沖縄の米兵の事件で「在日米軍の存在そのもの」に怒りを感じている人たちは、一体、何に対して怒りを感じているのだろうか?


米兵がいたいけな少女を暴行したことについて怒りを感じているのだろうか?

それについては、残念ながら、暴行犯は、そもそも「法律に従う意思がない」のだから、日米地位協定がどうであろうと、はっきり言って関係ない。在日米軍が消滅するか、あるいは米兵が犯罪を犯さないように教育、または、監視する以外に予防する方法はない。
しかし、在日米軍基地は、何も米兵が犯罪を犯すためにあるわけではない。在日米軍基地は、あくまでも日本や東アジアの安全保障を構築する意義を持っている存在であって、存在意義の消滅、あるいは、存在のデメリットがメリットを超えたときに「必要ない」ということない限りは、消滅させるのは『得策ではない』ということになる。

米兵が犯罪を犯しても、日米地位協定によって「起訴後でないと身柄引き渡しがない」ことへ怒りを感じているのだろうか?

これについては、協定そのものの改定ではないが、日米合同委員会において、起訴前身柄引き渡しについて合意がなされている。
外交文書には「交換公文」というのがある。条約の解釈や留保について伝えるときにも「交換公文」は使われるが、双方が合意すれば、条約や協定の本文が改定されなくても、「交換公文で宣言した解釈」が条文の解釈となり、法的拘束力を生じる。
交換公文とは異なるが、考え方の方向性としては、これと同じである。すなわち、日米地位協定そのものの改定はなされずとも、日米合同委員会での「合意」が、日米地位協定の「運用」としての「法的拘束力のあるもの」である。

一部に、「うるさいから、今は『好意的考慮』を払うだけで、静まれば、協定そのものは改定されてないのだから、『好意的考慮』などはしない」という、すごく魂のステージが高いお方がいるが、「外交文書」として成立しているものをカンタンに、しかも一方的に破棄できるほど甘いものではない。日本クラスの同盟国に対して、こんなことをやらかそうものなら、責任問題が避けられない失態となる。国務長官や国防長官が謝罪または発言撤回を迫られることは確実であるし、実行者が国務次官補等であれば、更迭されても不思議ではないほどの失態なのである。





これも余談だが、アメリカにおける日本の立場は、日本国民が考えているほど低いものではない。在日米国大使の地位は、アメリカ国内においても極めて高い。若手の外交官出身ならば、(必ずそうだ、というわけではないが)「次は国務次官」になってもおかしくはないほどのエリートコースであり、年寄りで在日米国大使となるのは、「議長経験者」という『米国の超大物』なのである。
これだけの国との外交文書を一方的に破棄するときは、EU諸国からの信頼も失う覚悟を決めたときぐらいである。






「在日米軍があるから、米兵の犯罪があるのだ!」と言っている人については、もはや『論外』である。これを言ってしまっては、「在日コリアンがいるから、在日コリアンの犯罪があるのだ!」と言うのと同じである。
「日米地位協定があるから問題になるのだ!」に至っては、論外どころか「小学校からやり直せ」という言葉が適切なほど愚かな思想であり、言動である。前述したように、『刑法や刑事訴訟法があっても犯罪が起こる』ことを知っていれば、「法律を守る気がない」のであれば、日米地位協定があろうがなかろうが、犯罪そのものは「起こる」のである。

「軍隊がない国を攻撃すれば、国際法違反だから、制裁を受けるはずだ」というのもいるが、国際法を遵守する気がないから、攻撃をしてくるのであって、軍隊の有無など関係ない。国連による制裁を受けるかどうかに至っては、「誰も強制することなどできない」し、「見返りを求めるのは非人間的だ」といくら言ったところで、そんなもん、聞くという保証はどこにもない。

という上記の発言は、魂のステージが低い、イラク戦争を国際法違反だと断定しない悪質な人間だから行うらしい。
どうやら、私は永遠に魂のステージが高くなることはなさそうだ。

イージス艦事件で思うこと

イージス艦「あたご」とマグロ漁船「清徳丸」の衝突事件は、確かに悲劇であるし、残念である。
私は、希望を捨てずに、最後まで行方不明者の無事を祈るとともに、国は被害者に対して全額賠償とアフターケアの充実を図る義務があるのはもちろん、大臣辞任の是非はともかく、綱紀粛正を厳格に図っていかねばならないのもまた、言うまでもないことだと主張するものである。


さて、またもや不正な言論がはびこっている。
今回の事故で「自衛隊は国民を守らない」とか「自衛隊はいらない」といった暴論である。
事故を起こしたことが、自衛隊の不必要性や存在悪の理由になるならば、自動車はとっくの昔に「全廃」されてしかるべきである。自衛隊の事故よりも自動車事故の方が遥かに多いのである。包丁も全廃すべきであろう。料理用に使う包丁も、立派な殺傷武器になる。
包丁やナイフでの刺殺事件も多発して止むことがない以上、全廃を主張せねばダブルスタンダードになる。

こういえば、「自動車や包丁は、人の役に立つ。しかし、軍隊は役に立たない。一緒にするな。」という不正な反抗が出てくる。
軍隊の存在意義は、「防衛」であるわけだが、実際に使用しなければ意義がないのではない。「存在すること」によって「敵対国が武力攻撃をしてきたときのリスクやデメリットが高い」という状態を確保することに意味がある。これを『抑止力』と言う。『核抑止力は時代遅れ』とのたまう愚か極まりない平和主義者なるのもいるが、それならば、核兵器はこの世に存在しない。北朝鮮が開発することもないし、第一、開発されたことが問題になることもない。従って6カ国協議も存在しないであろう。この小学生にでもわかりそうな単純な論理が理解できないのであれば、不特定多数が閲覧できる場で表現行為をする資格などない。

防衛省側は、イージス艦クルーが漁船を確認した時間や状況を訂正した。これについて「防衛省は嘘をついたのか」という批判がある。被害者の関係者ならば、その気持ちは察して余りある。批判も非難もできないし、またそんな気もさらさらない。
しかし、そうではない第三者である「平和主義者」が、鬼の首を取ったように同調してはならない。死刑廃止論者ならば、言語道断の感情である。こいつらには、猛省し、発言を撤回し、思い込みでの不当な発言について謝罪する義務と責任があるのだが、しないどころか、逆にこうした正当な発言をした私に対しての批判や非難をするであろう。まったく、愚かしいことである。

もちろん、防衛省が責任回避のために虚偽の発言をした可能性はある。これ自体をとやかく言うつもりはないが、しかし、事故が起これば現場は大混乱である。クルーの証言自身も、今の段階ではクルー自身が冷静ではない可能性もあるため、故意ではなくても誤った証言をする可能性もあるだろう。故意でなくても、今の段階では、情報が錯綜していることは十分予期することができる以上、「嘘をついた」とか「国民を守る気がない」といった批判や非難は、被害者関係者以外の第三者は慎むのが当然であり、これを否定するいかなるものも、この世には存在しない。
当然のことながら、事故の真相がある程度明らかになった時点で、防衛省が嘘をついたとか、クルーがごまかしたことが確定でなくても、可能性が高い根拠が出てくれば、こうした発言をしても構わない。

ただし、今回の件で、「自衛隊いらない」論は、微塵も正当化されることはない。
自衛隊がいるかいらないかは、軍事組織の存在の有無による武力攻撃を受ける可能性の有無で論じるべきことである。「事故を起こしたのが、たまたま自衛隊だった」というに過ぎないものであって、漁船同士の衝突、あるいはタンカーとの衝突事件と同一レベルで語るべきものであって、処理や対応についても、「軍隊・自衛隊だから」ではなく「処理や対応がきちんとされていない組織だから」というに止まる話である。もちろん、軍隊・自衛隊の性質と、処理や対応がきちんとできない組織であることとの間には、まったく因果関係はない。

この程度のことがわからないブロガーや弁護士、政治家は、即刻猛省し、感情を改めないといけない。

無知は罪

であり

言論の自由は嘘をつく自由ではない

のである。

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東国原知事の気持ち、わかります。

先日、菅直人民主党代表代行と東国原宮崎県知事の『対決』があった。
もちろん、話題は道路特定財源。

まずは、東国原知事に苦言。
気持ちは理解できるが、あれじゃイメージは悪くなる。
まず、「改革派知事」として颯爽とデビューした「しがみのない知事」なのだから、現状についての批判を交えながら、その上での民主党の「足りないところの指摘」であるべきだったと思う。あれでは、利権を守る知事に「映った」としても、仕方がないところだろう。

そして、宮崎ばかりを主張するのは、この場合好ましくなかった。
道路特定財源の話は、一都道府県にとどまらず、全国規模の話である。しかも、道路行政の無駄や不正・汚職・腐敗もさることながら、原油価格高騰という国民生活に直結した話でもある。この弊害をきちんと指摘した上での話を展開すべきであっただろう。


「せんたく」という何をコンセプトにしたのかよくわからないサークル(?)に入ったが、「改革派知事」であるとともに、「危機を脱するために斬新な政策を行う地方の知事」でもあるのだから、同じ境遇の知事との連携も模索してもらいたい。


次に、東国原知事を批判する人たちへの教育的指導。

マスコミに踊らされている、あるいは、都市部という比較的便利な環境の下で生活している人には、東国原知事の発言は理解できまい。
確かに、道路特定財源の話は、マスコミや評論家が指摘する問題ははらんでいるし、原油価格高騰で、国民生活に様々な影響を与えている。


私も暫定税率廃止を希望している。


しかしながら、地方、特に過疎地は、道路建設どころの騒ぎではない。歩道の整備、バリアフリー、排水溝も不十分である上に、損傷箇所の補修や舗装道路もままならないのが現状である。これらの経費ですら、道路特定財源からの捻出である。
東国原知事は、何も道路特定財源に「何がなんでも反対」しているのではない。「最低限の道路建設ができるような措置を講じてくれ」と言っているのであって、一般財源化するしないがメインではない。
彼の発言を静聴すればわかる。「一括して渡されても、道路が整備されているところは、医療、福祉、教育に使えるが、宮崎は道路にも使わないといけない。そうなると、医療、福祉、教育はどうなるのだ?ますます格差が広がるだけではないか。」と具体的に理由を列挙している。
すなわち、東国原知事の発言を批判するのであれば、『道路関係の特別会計を廃止し、交付税措置において「道路が不足しているところは、道路建設分をかさ上げする」ことで、地方間格差を解消していく』とか、そういった措置を出すことが必要なのだ。
これを履き違えて「自公政権の代弁者」だと批判する愚か者がいる。(もし、そうなら猛省せよ)

さらに、「道路がないために、救急車が効率的に走れない」と言えば、「道路を作っても、その先に病院がなければ意味がない」「道路を作っても、救急車がなければ意味がない」という批判もある。
これは「バカ」としか日本語がない発言である。
病院がなければ病院をつくる、救急車がなければ救急車を調達する。つまり、「それはそれで、別途補助金なり交付金を支給する」べきであって、道路予算とは直接には関係ない話である。交付金や補助金の総額を上げてはならないという理屈などない。
「足りない分を全額」
これででいいのだ。これをごちゃ混ぜにして批判材料とするような人は、不特定多数が閲覧できる場で発言をしてはならない。


この点、民主党の「案」は、東国原知事の発言のように「自民党案より酷い」。
国交省の道路計画自体も、計画プロセスも、当然見直していき、全国的に「必要最低限の道路」にとどめて、暫定税率を引き下げし、国民負担を軽減することは必要だと思う。

しかし、自公はもっぱら「国交省・天下り・ゼネコン・利権」を叩いているのみであり、民主・共産・社民は、それに「政治家との癒着」と「特別予算廃止・一般財源化」を加えているだけである。国会審議で「最低限のインフラ整備による地方の格差を縮める」ことについての具体的な発言は、ほとんど見られない。
つまり、私から言わせれば、全政党が『地方をどうするのか』という話などしていない。筆坂秀世元共産党最高幹部がテレビ番組で、「野党も、ただ攻撃しているだけで芸がない。道路が本当に必要なところがあるのは確かなんだから、それに踏み込まないと。」と指摘していたが、まさにその通りである。




東国原知事批判=格差を認める



普段から「格差社会は自公政権の新自由主義政策が原因だ」と、格差社会の是正を主張しているくせに、道路に関しては格差を生む要因を作れ、と言っているのだ。
私に言わせれば「自公政権さえ潰れてくれれば、あとはどうでもいい」と言っているに過ぎない。そのことに気づかないで「自公は論外」だのと何だのとは、はっきり言って片腹痛い。
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地球温暖化の流れに逆行して、財布の中身は常に氷河期到来している、「生活は庶民以下でも、志は貴族」(←鈴木邦男氏・談)と、言える日は来ないだろうなぁ・・・。

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